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写生大会 [過去の記憶]

そう言えば、11月3日の休日は、何も意識しなかったけど、
文化の日だった。
こんな無礼者(?)は、本当は休日を楽しんではいけないと思う。
(いや、思わない。ウソを平気で言った、反省します)

文化の日、
小中学生の時、長野の田舎の町で、写生大会が開かれる日でもあった。
その日には、
町の中心地にある、小高い山の公園に行って、
思い思いに絵画を書いて提出する日でもあった。

毎回ではないが、その町内の写生大会で何回か賞をもらった。
一度、金賞(たぶん、一番上の賞]をもらったことがあり、
母親が喜んで、家の壁に額縁に入れて飾ってくれたことがある。
もう誰も住んでいない長野の実家には、未だにその絵がかけられている(はずだ)

ちょっとしんみりした話になってしまったな。

絵は入賞したことはあるが、しょせんは小さな田舎町の表彰だ。
その後、何かで表彰されるようなことも、そっち方向のスキルが脚光を浴びることも無かった。

いやいや、小さい頃から、
絵を描いてほめられたことよりも
「どうしてこの絵が褒められるのだろうか?」
ということが分からなかった。

良い絵ってなんだろう?
写真のように正確に書くことだろうか?
であれば、
絵を飾るんじゃなくて、写真を飾ればいい。
絵画そのものの否定じゃないだろうか?

たしかに私よりも正確に緻密に絵を描く人もいた。
彼・彼女たちも表彰されたりしていたが、
それが良いとは、先生や大人たちも言っていなかったなと。

仮に、見た風景を、抽象的に書いたり、
デフォルメして書いたら、どうなるんだろう?
そもそも、空想やイメージを書くのであれば、
風景を見る必要もないし、
デザイン力、発想力が求められるだけであって、
写生する必要が無い。
これも、
絵画の否定ではないだろうか?
と、思っていた。

ひねくれた子供だな。。。


月日が流れて、大人になって、
職について仕事を始めた時に、
「優秀な人」とは、どういう人だろうか?と思う時があった。
大きく分けると、仕事の行動は3つに分かれる。
1)見ること
2)考えること
3)表現・行動すること

まず、何かをするには、じっくり見て観察する必要がある。
実は、ここのスタートが一番肝心であり、
「同じものを見て」も、それに気がつく人と、気がつかない人がいる。
それが、仕事や才能として大きな開きにつながることがあり、
成果・評価につながるケースが多かった。
だから、まずちゃんと見る(という体験をすること)と、見て気がつくこと・発見することが
とても大切だと、学び取った。

次に、
見たものについて、考える事。
考えることもさらに分けると2つに分かれる。
1つが、理解すること、把握すること。
見て気がつくことと似ているが、見た後に、それがどういう意味を成すか。
それがどういう事を言えるのか?それはどういう特性なのか?の
状態を理解すること。

見ているだけのモノは、単なる形でしかないが、理解し・把握すると
そのものにいろいろな情報やタグがついてくる。
それが、理解・把握することだ。

その次に、
そこから、何が出来るか?どうすべきか?を考える事、
考えて、ひらめくこと!
ここが一番、頭を使うところかもしれない。
頭の良さや経験値・知識、、、いろいろなモノが問われるところで、
最終的な成果や評価は、ここがどれだけ自分が多くのモノ(ドライバー)があり
見て発見した対象物から新しいものを引き出すか?生み出すか?になる。

そして、最後の3)表現すること・行動すること
考えただけ、理解しただけ、思いついただけでは、
本当の成果にならない。
これをやろう!こう変革しよう!変容しよう!と
新しい価値を、実際の行為や行動で、実現することが大切だ。
象牙の塔で考えているだけではなくて、行動する力!が
最終的に備わっていないと、成果にならない。
アウトプットを出すのが重要なのだ。

繰り返すと
1)見ること
2)考えること
3)行動する・実現する・表現すること
になる。
そして、それぞれの能力が連動し、バランスが取れることが
最大の成果につながるということを、
年を取ってからようやく理解するに至る。


実は、前半の話の写生大会も一緒なんだと思うのである。
まず、実物・現実を良く見て、
自分はどういう絵を描こうか?考えて、
白いキャンパス(または画用紙)に表現していく。
見て・考えて・表現する。。。
小さいながらもビジネス行動のワンセットのサイクルだ。
もしかして、
写生大会って、そういうものを学ぶモノだったのだろうか???

・・・
すみません。
そうじゃないですね。
芸術は、、、芸術だ!


秋ですね。
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フェリー上でカモメが飛び交う

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初めての一人ツーリング Road To 佐久 [過去の記憶]

(過去の記憶)
ロードバイクを買い、大学生になり、
サイクリング部に入り、活動を開始した。
右も左も分からない田舎者だったから、最初は先輩にあちこち連れて行かれて、
危険とか楽しみとかいろいろな事を体感しながら成長していった。

わりと良い子というか、、、
冒険も挑戦もしなくて、ルールを破らないように慎重に行動するタイプだったので、
何か仕出かしたら、「ここが限界」という体感での境界線をつける。そんな学び方だったように思う。
(今、会社で、どんどん突き進む爆弾魔がいるが、、羨ましい反面、毎日冷や冷やしている…)
((いやいや、そんな事ではない。過去の話に戻す))

夏休みになり、北海道で合宿の予定があるのだが、
その前のわずかな期間で、自転車で家に帰ろうと思いたった。
・・・
今から思い出すと、、なぜ思いたったかも覚えていないし、
本当に1年目の夏休みだったのか?も定かではない。
ただ、
浪人していた友人が埼玉で塾の寮に入り勉強していて、
その寮に潜り込んだ記憶があるので、大学1年の時で間違いが無く、
私の大学の夏休みは7月1日から2か月間だったが、
合宿は7月下旬から始まるスケジュールだったので、確かに空白の2週間で帰郷出来たんだと思う。

そう、大学から長野の実家まで約200kmを走ったのである。

少し動機を思い出した、
中学生のころ、少し大人びた同級生が、長野の佐久というところから、千葉まで自転車で走る、、
という事をやり遂げた。
中学生なのに、峠を越えて、都会(関東)に出て、見ず知らずの町を走り、
そして千葉まで行くなんて、、、想像すらつかない大冒険だ。
友人が中学でそんなことをしたんだから、
大学生になった私は、その逆の道を走っても、何ら苦労は無いだろう!と、高をくくっていたのである。

前述のように、大学から友人の寮まで、関東平野を横断した。
最初は60kmぐらいだし、平地だったので割とすんなりとたどり着いた。
浪人していた友人は、勉学で忙しいにもかかわらず、私を向かい入れて、
夕食を食べたり、寮生活の友達に合わせてくれて一緒に会話したりした。
(今から思えば、浪人生の中に、一人だけ大学生が、自転車旅を謳歌している…と心無い行動だったと思う)

楽しい時間を過ごし、本当ならば、一晩泊ってから、走り出す予定だったののだが、
どういうわけか忘れたが、たぶん、ノリで、夜中の12時頃に、
友人の寮を後にした。
たぶん、楽しい時間を過ごして、すごく元気だったから、そのまま寝ないで走れると思ったのだろう。

そこから実家まで130~140kmぐらいである。
夜中走るような道ではない。
今のようにGPSのルート案内も無いし、
ツーリングマップという地図を片手に走るのだが、真っ暗なので地図も見れない。
走れども、走れども、、全然進んだ感じも無かった。
川越のあたりは、太い国道だが、ダンプがビュンビュン走って危なかったし、
その時の国道254号線では、山の中で突然道が工事中になり、迂回路も分からず途方に暮れてしまった。

走り始めてから2~3時間が一番つらくて、
東松山まで来た時には、もう走りたくない…と半べそかいて泣いていた。
長い長い埼玉の道を抜けて、群馬までたどり着いた時には、
ああ、ようやく半分来たか…とおもったが、
眠さがMAXに達していて、空も白々と明るくなっていた。

そして、何を思ったのか、、、
道路脇で自転車を立てかけて、
歩道でゴロリと横になって爆睡してしまったのである。
(今から考えると…何にも考えていなかったんだね…)

2時間程昼寝をして、目が覚めて最初に視界に飛び込んだのが、、
女子中学生が走り去る姿があった。
(心配して、見られていたのだろうか?単に通過しただけだろうか?)

若いって、現金なもので、そこからは順調に群馬の山道を走っていく。
長野県人にとっては、峠を越えれば、都会(関東)であるが、
群馬の山並み、空気感は、ちょっと長野に似ている。
特に下仁田までくれば、もう、こっちのものである。

下仁田から佐久に通じる道は、国道254号線を走るべきだが、
私の実家は、その1本南の県道の方が近い。
どんどん進むと、、、道がどんどん細くなる。
1車線はおろか、軽自動車も通るのが困るぐらいに細くなる。
しかも、突然急坂になったり、登ったら下ってしまったりする。
道も荒れ放題だった。
おかしい。。。
中学の頃、その道の長野側を走ったが、そんなに細くは無かったし、
2車線で、整備されていたはずだ。。。

あとあとの経験で分かったのだが、長野と群馬の県境の道は貧富の差が生まれている。
長野側がお金をかけて綺麗になっているが、
群馬側は、そんな無駄な事をしないで、都会(前橋とか、高崎とか)にお金をかける。
だから県境を過ぎて群馬に入ると途端に道が悪くなるのである。

しばらく、交通量がほとんどない道を進むと、
高原らしい綺麗な山道になった。
天気は調べずに走ってきてしまったが、(当時は浅はかでした)
ビギナーズラックというモノがあったのだろう。
この山道を登り切ったぞ!という達成感が半端なかった。

そして前述の通り、綺麗な長野県側の道に入り、、、
実家まで一気に坂道を下る。
家に帰る道が、どんなに楽しく、待ち遠しかったことか。

家に帰ってからの記憶はほとんど無い。
たぶん家族たちは喜んでくれただろうと思うのだが、
次の記憶は、北海道に飛んでしまうのである。
https://tsucch.blog.so-net.ne.jp/2013-10-25

こんな小さな旅であったが、
前日のブログにも記載した通り、こういう体験や痛い失敗が、
私の経験となり、知恵となり、知識となり、自分を造り上げて行ったのだと思う。
もう、細かい事は思い出せないのに。

もう、記憶も及ばない遠い昔の話になってしまった。
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佐久平と、佐久人の心のシンボル浅間山

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1+1は2以上である [過去の記憶]

今日は、自転車の立てかけ台を作った。
ネットで調べたら、自転車を立てて収納する写真が出ていて、
丁寧に作り方も書いてあったので、見よう見まねで作ってみた。

ロードバイクというジャンルからすると、盗られるようなグレードではないが、
それでも無くなったら悲しいので、家の中に置いておきたい。
(今までは、家の外に施錠もせずに放蕩していた・・・)
2時間近くかかって、作ったが、、、、ちょっと大きすぎて、
立てかけたのに、収納力があったのかどうかというと、、微妙である。
時間が経ったら、普通に立てかけておきそうな感じである。
(頑張って作ったのに残念だ)

その前は、横浜市内(みなとみらい地区)まで走りに行った。
いつもの短距離(約50km)のコースである。
このコース上で、スタートダッシュする区間があり、
遅いと必ず信号にかかってしまう場所がある。

初めてのコルナゴで、どうなるのか??試してみたら、
マンマと信号にかかってしまった。
やはり、自転車は軽くなっても、シナル効果が無いために、
トップスピードまで乗れないという事だろう。
ちょっと残念だ。



さて、
そんな自転車乗りであるが、ふと、(なぜかわからないけど、ふと)
学生時代に、九州を旅した思い出がよみがえった。
仲の良い友人と二人で、山口県の下関駅で降りて、
関門海峡を自転車を押してわたり、九州に上陸。
門司港駅でテントで一泊して大分方向に進む。
たしか、3月中旬頃だったか。

とても仲の良い友達だったし、一緒に旅に出るのも私が誘ったぐらいだったが、
その友人は、あまり考えている事や自分の思いをアケッピロにする人ではなく、
どちらかというと、何を考えているか分からず、ミステリアスな感じだった。
門司港駅では、一緒のテントで夜を明かしたいとお願いしたが、
いつも以上に頑なに拒否されてしまった。
(あ、私はそういう人ではないです。念のため)

翌日、どういうルートを通ったか、既にもう忘れてしまったが、
カルスト地形を見ていた記憶がある。
緑と白がまじりあった景色だけ、ぼんやり覚えている。
おそらく、平尾台という小倉の南の地区のカルスト地形である。

あてもなく、予定もしっかり立てず走って行ったので、
カルストを見た時点で、既に夜が暮れようとしていた。
スーパーで食材を買って、コンロで作って食べた。
ちょっとゆっくり走りすぎたのか、何日後の合宿に間に合わないんじゃないかと
友人は言い出した。

通常、ツーリングはナイトランをしない。
危ないからだ。
知らない道を暗がりの中で走るのは、
ライトを灯していても危険なのである。
・・・
さらに、心細いじゃないですか!

だから、通常であれば、そのあたりの学校に潜り込み、
テントを張って一晩を過ごす予定…であったが、
どっちが言い出したのか、思い出せないが、
夜の峠道を越えて、行橋まで行くことにしたのである。

緑深い、九州の山の中。
しかも、大きな国道や主要幹線道路ではない、細い山道。
くねくねと曲がり、通る車もほとんどない。。
そんな道を、友人と二人で登って行った。

私も臆病モノであるが、
一緒に走った友人は、さらに私より臆病者である。
一人だと、絶対にそんな夜の道を走らないが、
二人であれば、なぜか安心して走る事が出来る。
1+1は2ではなくて、もっと大きな力が出る。

たかだか、暗闇を自転車で走っただけであるが、
そんな、想いが込み上げてきて、走りながら感動していた。

その後、、、どこに泊ったのか、正確に覚えていない。
国東半島をぐるっと回れば良かったが、内陸側を走った記憶のみ。
別府温泉まで来た時には、合宿で合流する友人達がパラパラと集まり始め、
由布院で多くの友人と合流して、その後、九州の真ん中、やまなみハイウェイを走り、
阿蘇山の雄大な姿を見て、
高千穂峡の神秘的な姿に感動し、
宇土や宇城の街並みを楽しみ、天草諸島を仲間たちと楽しく走った思い出がある。

そういえば、、、合宿の終わりは、
ペアランと言って、くじ引きで2人のペアを決めて走るイベントがある。
若い時の話なので、、、女性とペアになるんじゃないかと、ドキドキするビックイベントであったが、
確か、合宿の前に一緒に走っていた、例の友達とペアになってしまった記憶が。
・・・
今となっては懐かしい。

若い頃は、毎日、毎日、いや、毎秒毎秒が、
人生経験と勉強(学び?)の瞬間だったような気がする。
特に、友人と接する時は、とてつもない力と知恵を授かる。
楽しいばかりではない…と思うのだ。


が、彼との想い出を語るには、
もう少し思い出を熟成させた方が良い気がする。
ただ、、、
記憶ってどうしても、薄っすらぼやけていくんだよね…

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過去に浸るばかりではなくて、新しい時代を踏み込んでいく。
なんてな。

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北の大地の旅 [過去の記憶]

北の大地・・・
なんでだろうか、そのキー・ワードだけで、
果てしない雄大な自然と、ロマンをイメージしてしまうのは。
私の感じるこのイメージは、他の人と同じなのだろうか?


さて、
今日は台風16号が日本を横断するということで、全国で大騒ぎである。
今まで見たことない迷走台風である台風10号の被害も、日本の各地ではまだ冷めやらぬ中、
次々に台風がやってきて、9月に”晴れた~!”という思いが無い。
自転車で走れないが、とても残念であるが、個人の趣味よりも、
そろそろ農作物にも影響が出るのではないかと心配する。

このシルバーウイークは、9連休を取る予定だった。
ところが、なんだかんだで仕事が入り、今日は午後休、明日は出社である。
今日は午後休を取って、次女も早く帰ってくる予定(学園祭が終わるので)だったが、
なんと、次女もイヨイヨ部活を始めたそうであり、
午後休を取って家に帰っても、誰もいなかったのである。

何のために、早く帰ったんだよ…
と、思わないでもなかったが、
時間と共に、雨が激しくなり、早く帰ってきてよかったなーと思ったりもする。

暇なので、TVを見ていたら、
「北の大地を自転車で旅する若者」
の姿を描いていた。
”自転車で旅する若者は、何を求めて旅をするのだろう。
彼らは何を考えているのだろう。。。”
なんて、
なぜ旅人に焦点が当てられたのか分からないが、
若い頃に同じように旅をしていた私には、ジャストミートな番組だった。

簡単に放送内容をまとめると、
札幌にある床屋さんは、全国一周の旅をしている若者の髪を無料で切ってあげている。
もう、その仕事をして30年にもなるそうで、旅をする若者と話をするのがとても嬉しいそうである。
そしてスポットが当てられたチャリダー(自転車で旅する人)は2人いた。
1人は、人と話をする事が苦手で、ずっと、スマフォをいじっている寡黙な若者。
今や、情報のすべてが、スマートフォンで入手できるから、孤独のままでも旅が出来るのである。
そのチャリダーに、床屋のオジサンは言った。
「今はスマートフォンでなんでも情報が入るけど、それでは味気ないよ」
若者は、スマートフォンの電池が切れた時に、初めて外の人と”会話”をして、
情報を得て、人と接して、
初めて旅をする喜びを味わえたのである。

私も同じである。
私の学生時代は、スマートフォンは無かったが、合宿以外は、一人きりで旅をした。
目的地を決めて、いかに目的に”効率よく”たどり着く事に重きを置いて、
よそ道に外れたり、知らない人と会話をするようなことが、全くなかったのである。

今、趣味の一つとして、自転車に乗っている。
私の場合には、ジムにあるサイクルマシーンと同じである。
決まった距離を、なるべく短い時間で走るべく、ひたすらにペダルを漕いでいる、
だけなのである。

この前、南房総の旅をした。
初めてのルート、初めての船旅という事もあり、かなり緊張して走りに専念した。
目的である、南房総一周をまっしぐら・・・
パンクして路頭に迷いかけたが、応急処置をして、
なんとか、昼過ぎには、地元エリアに戻ってきてしまった。

あれじゃぁ、、、何のために南房総に行ったのか。。
また、
普段の三浦半島も、休憩無くひた走りである。
早くなったり遅くなったりするが、4時間で100km。
ただただひた走りであるが、本当に何のために走っているのだろう??という感じである。


先ほどの、TV番組では、もう一人紹介していた。
・就職活動に失敗し、行く先を迷っている若者
正確に言うと、合格発表を受け取るつもりで旅に出たが、
最終試験で落ちてしまったそうで、どうしていいか分からないまま、
広島から北海道まで走り続けていたそうだ。
前述の床屋のオジサンに励まされ、旅先でバイトをしたオジサンにも励まされ、
言葉の重さ、人生の重さに涙して、
最終的には目に生き生きとした光を湛え、希望に満ちた目で、
やりたいこと、やるべきことを見据えて、人生を歩いていくと決心していた。
まるで、映画のようなTV番組だった。

ああいう番組は、なかなか作れないと思う。
良作品であった。
私のくすんだ心も、随分と洗われた気がする。


自転車での旅。
体を鍛えたり、自分との対話も、やはり重要だと思う。
ただ、
旅先で、自然や人に触れあいながら、
”ゆっくり”と回るというのも、良いんじゃないかと思う。
効率性では測れない。
物差しのように測れない。

北海道は学生時代に3回旅した。
友達と楽しくツーリングするのは、確かに楽しかった。
知らない人に話しかけられるのは、気恥ずかしいし、わずらわしかった。
今でも、
知らない人に話しかけられると、ちょっと逃げてしまう。
(そういえば、次女の学園祭で、展示を見ていたら、
女生徒が”説明しましょうか?”と話しかけてきそうだったので、
足早に逃げて行ってしまった。。。
女生徒の方がよっぽど勇気が必要だったと思うのだが、
・・・我ながら、”クズ”な人間だと、改めて反省する)

人間はすぐには変わらない。
変えられない。
また、昔の孤高な旅の経験は、(孤高というより、結果的に孤独だっただけだが)、
それはそれで、今の自分を培ってきたと思うから、良いも悪いも無いのだ。

が、
三浦半島ではなくて、
北の大地に、もう一度旅に出たい。
若い時の情熱と、誰とでも話せられるようになった今の経験値を持って。

そんな風に思うのは、今だけだろうか?
家の外では、嵐が吹きすさんでいる。
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(近所の用水路で見かけたサギらしき鳥)
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近所の花火大会 [過去の記憶]

今日は私の住む地区での花火大会だった。
地区の花火大会だから、そんなにたくさんの人が押し寄せるメジャーな花火大会ではない。
だから7時から始まり、8時で終わってしまうほどの短い花火大会である。
だが、子供たちが生まれた時から、その花火大会に行っていたので、
子供たちが中学生になっても、その花火大会に出かけていったのである。

あ、
少し語弊があった。
娘たちはそれぞれ中学受験を受けたので、
これまでは花火大会で遊ぶことが出来なかった。
特に、中学1年の次女は、久しぶりの花火大会である。
嬉しそうに出かけていき、、、花火が終わって2時間半経つが、まだ帰ってこない。。
鉄砲玉のように、出たら帰ってこない母親に連れて行かれたので、
帰ってくる様子が無いのである。


花火の記憶、、、
一番、華やかな花火を見た記憶は、
大学時代に隣の市で開催されていた花火で、
「翌年の花火の品評会」と言われていた晩秋の花火大会なので、
最初から、すごい花火の連発であった。
学生時代に、友人たちと暗がりの中、自転車に乗って見に行った思い出がある。

だいたい、、花火大会は、私のように、
花火を見に行く人でごった返す。
当然のように、渋滞になったり、混雑して思うように身動きが取れない。
轟音とともに、光が舞う、花火をぜひとも見たいところであるが、
どうしても、その他のストレスにより、ノーサンキューになってしまうのだが、
その花火大会はとてもよかった。

社会人になって、その花火大会を、一度だけ見に行ったことがある。
郊外にある都市なので、見終わった後に、大群衆と一緒に電車に乗って帰るのは、
とても疲れたという記憶しか残っていない。
やはり、群衆によるストレス耐性が弱いようである。


今住んでいる、地元の花火大会は、
人口海岸に寝そべって、花火を見ることが出来る。
観客席が2kmぐらいあるのと一緒なので、ゆったりとみられるのだが、
やはり、見終わった後の、民族大移動で、早く帰ろう!早く帰ろう!とすると、
ストレスが高まってしまうのである。

最近は、車で行けるところまで、妻子を送り迎えするだけなので、
ストレスは低いはずであるが、
花火大会の会場近くまで行きたいという、わがままなことを言う妻と、
小競り合いが続くのである。
妻子は、渋滞の中で車を降りて、渋滞で動けない私の事は、気にならないのである。
我ながら、、、どっちも悪いと思うのだが、
人の多いところが嫌いという、この特性(?)は、治らないものだろうか?


小さい頃、、、、小学生から高校生の頃、、、
家の近くには2つの花火大会があった。
一つは、5月に開かれる、小さな町の小さなお祭りの後に打ちあがる花火。
豪勢な花火は何もなくて、丸い花火が何発か打ちあがって終わるだけであるが、
小さい頃は、それはそれでとても楽しかった。
もちろん、どこから見たか、誰と見たか、、、、すらあまり覚えていない。

もう一つは、住んでいた場所から、どのくらい距離があるのだろうか?
ずいぶんと離れた場所から打ちあがる花火を、
平屋の屋根に登って見ていた記憶がある。
(今から思うと物騒だが、昔の子供は普通に家の屋根に登って遊んだものである)
今、調べてみると4kmほどの距離でしかないが、
当時はその4kmが、果てしなく遠い距離で、
そんな場所まで行ってはいけないところであり、たどり着けないと思っていた場所でもある。
現に、その周辺一帯の唯一の”繁華街”でもあった。
少年時代、大人の街を遠く眺める、、、そんな花火の記憶だ。

屋根の上に登って、遠くに打ちあがる、小さな花火を見ながら、
その当時、私は何を思ったのだろうか?

社会人になって、
仕事の関係で、花火というか、人があるまることへの”対策”で、
あれこれと頭を悩ませている。
単身赴任をした北陸でも、敦賀湾の花火大会や、
三国花火大会、川北花火大会等で、”花火自体は見ていないが”いろいろと関連した。

もちろん、隅田川花火大会や、多摩川の花火大会、神奈川新聞花火大会等、
仕事上ではいくつもかかわっているが、実際に花火は見に行っていない。
大人になってしまったというか、人混みが嫌いと言うか、、、
何とも困った性格であるな。

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(ちょっと、電線が邪魔だな・・・・我が家から見た今日の花火)
小雨が降りしきる今日、
妻子たちが近くで眺めているであろう花火を、遠くから見ていた。
いろいろな思い出を思い出しながら。。

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追いつけない理想像 [過去の記憶]

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冒頭から写真である。
貼り間違えではない。。

飛行機の中から撮った写真である。
私が生まれてから18年育った地区である。
飛行機の上から見ると、本当に狭い盆地であるが、
小さい頃は、この盆地から一生抜け出せないような、
不安と安心が入り混じっていた気がする。

さて、私がこの土地を去るまでの大雑把なはなしを、、、(今回は特に長いよ)

中学生のころは、とても優等生で良い子だった。
家はビンボーではあったが、それなりに幸せだったと思う。(当時は幸せなんて意識しなかったが)
その地区の学区には公立高校が片手ぐらいしかなかったのだが、
その中の進学校に合格して、ちょっといい気になっていた。(と思う)

高校1年の時には、授業には行っていたが、ほとんど勉強をしなかった。
変なこだわりというか、思い込みがあり、”落ちるところまで落ちてやろう”と思っていたのだ。
(遅い反抗期だったと思われる)
高校1年の3学期のテスト。
一番得意のはずだった数学が、全く分からなかった。
図があり、角度を求める問題で、60度よりはちょっと広いな。と目分量で75度と書いて丸をもらい、
あと、2,3問適当に書いた答えに丸をもらって、あとは全部バツ。平均点が50~60点のところ、
13点だったのを鮮明に覚えている。

高校2年になり、ちゃんと勉強した。
今までの自分を反映して、今までの自分から脱却するために。
(と書けば、カッコ良い風だが、そんな自分に酔いしれていたのかもしれない)

ここで、私の友人の話が登場する。
その友人は、小学校からの友達であり、同じクラスになったり、
中学校の時には同じ部活をしていた。
彼は、小さいころからハンサムで、性格も明るく、頭が誰よりも良かった。
男女の誰からも好かれ、陰口を叩かれることも無かった。
スポーツも万能で、何をやっても優秀。
中学のバスケットの部活は、私は補欠だったが、彼はガードでずっとレギュラー。
私と違って、字もとても綺麗に書き、身なりもいつも小奇麗だった。
非の打ちどころがないというのは、彼の事だと思った。

彼と一緒に行動するのは、私はとても嬉しくて、
いつも犬のようについて歩いていた。
彼は、そんな私を部下のように扱うことなく、常に1:1の人間として扱っていてくれた。

彼が、長渕や中島を聞いたから、私も長渕や中島を聴いた。
彼が買ったノートや鉛筆を、私も真似して買った。
彼が読んでいた漫画を、私も借りて読んだ。
彼が私の理想の姿、しかも、生きている理想像であり、身近な理想像であった。

ただ、どんなにどんなに努力しても、
彼には絶対追いつかないし、追い抜こうという気持ちも起きなかった。

高校時代、同じ中学から進学した3人で、
帰宅部になっていた。
(私は、最初は陸上部に入ったが、途中で挫折した)
いつもそのメンバーで、放課後に教室でトランプをして遊んでいた。
帰り道にゲームセンターに寄って、金持ちの友人がずっとゲームをしているのを、
友人と一緒に眺める日課だった。


そんな中、、、
真面目に勉強をして、高校3年になると、将来に対する不安と、
そしてちょっぴりの野望を思うようになった。
このままではいけない。
このままでは、私は成長しない。と。
高校生の思想なので、まぁ、アバウトであるが、純真だった。

ある日、些細な事で、その理想の彼と喧嘩をした。
100%、私がいけなかったのをしっかりと覚えている。
温厚な彼を怒らせたくらいだ。

しかし、
その瞬間。
”彼の分身のように、コバンザメのように生きていく自分から、独立しよう”
と、決意した。
彼に謝罪することなく、背を向けて彼から離れて行った。

以降、
彼と二度と口をきいていない。
卒業する時も、彼の存在を意識しながらも、
言葉をかけることなく、
そして、私も、その地を去って行った。

あの時の私は、
幼い自分との決別を、彼との決別に重ね合わせていたのかもしれない。
とても、とても大切なその友人を失ってしまった。
とってもつまらない、些細な事で失ってしまった。
もちろん、後悔はしている。
でも、
あの時の、非情な決断があってこそ、
今の自分があるように思える。

卒業後、しばらく送られてきていた、高校の同窓会名簿によれば、
彼はトップクラスの私立大学に行き、最大手の上場企業に就職したらしい。
彼の事だから、失敗はせず、万事うまくやり抜きながら生きているのだろう。
小さい頃、つまらない男が友達にいたことを思い出すことも無いと思われる。

なんで、ふと、このことを思い出したのか?
私に死期が近づいているからだろうか?
中島みゆきのTell Me SYSTERを聞いたからだろうか。
(中島みゆきのTell Me SYSTERによれば、死んじゃうのは、理想の像の方なんだけどね)

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良い子でした [過去の記憶]

子供の塾のプリントで、
塾の先生の、”趣味だろ!?!”と、突っ込みたくなるような、
国語の読み物のプリントが配られる。
ジャンルや内容はバラバラ、塾の先生の直筆もあれば、
誰か著名人の引用文もある。
笑える文もあれば、声をあげて泣いてしまうような文もある。
そういう意味では、かなり文才のある先生なのかもしれない。

今日、読んだ文章は、その先生が小学校の時のエピソードが載っていた。
かなり腕白坊主だったようで、小学校の先生にかなり怒られたことが、
この先生大丈夫か?と、思う程に忠実(客観的)に記載されていた。
文章の最後には、奥様がガンにかかって亡くなられた前に、
病院で診察した、冷たい病院の先生の対応にいたり、
「君たちは、医者になる人もいるだろうが、心無い医者になるな」
という内容で〆られていた。

自由奔放な文章の裏に、凄味があるというか、
強い思いが秘められていた文であり、
なんと言ったら良いのだろうか?
小学生がこの文章を読んだら、、、どんな反応するのだろうか?
分かるのだろうか?分かったらどうなるのだろうか?とも思った。


それはそれでおいておいて、
(置いとくのかよ)
小さい頃の自分を少し振り返ろうと思った。
・・・
ワンパクな自分。
・・・
あまり、思い出せないのである。

都合の悪い事はすぐに忘れる性格なので、
たぶん、鍵付きの箱にしまって、記憶の引き出しの奥の方に厳重に保管されていると思うのだが、
たぶん、
それを差っ引いても、、、客観的に考えても、
あまり問題を起こさない”良い子”だったと思うのだ。

小学校一年の時、
隣に座っていた子が発言し、座ろうとして椅子を引いて、転ばせて泣かせてしまったこと。
(とてもかわいい女の子で、気を引こうとしたのだと思う。たぶん。)
親戚の家に行って、軒下にあるツバメの巣を全部壊したこと。
(なんでそんなことしたのかよく分かりません。鳥の糞が迷惑だったと思うのです。)
近所の家の1mぐらいの桜の木を、根こそぎ切ってしまったこと。
(綺麗だったのでしょうね…)

あと、親に怒られたのは、
小学生なのに、隣町のプールに、友達と泳ぎに行ったこと。
頬が腫れるまで叩かれた記憶があるが、
もう少しスレれた小学生だったら、「何が悪いの?」と、開き直っていたと思う。


元気さや活動エネルギーが足りなかったのかもしれないが、
純朴な、いわゆる”良い子”だったと思います。

むしろ、
年を取って、知恵が出てきてから、
いろいろと悪巧みをするようになったのかな。
もちろん、犯罪行為をすれば、一発で身が亡びるので、
極力、良い市民として生きるようにしているけど、
知識というか、悪知恵だけは発揮される場合が多いような気がします。

性善説というのだろうか、
大器晩成というのだろうか。

今日、若者と面接をしていて、思ったけど、
私も、昔は彼らのように、純真な気持ちで、右も左も知らずに仕事に打ち込んでいたなと。
とってもピュアな気持ちで、不安と希望を抱きながら、仕事に取り組んでいたように思えます。

ああ、
今のやる気ないというか、腐った自分が嫌い。。
(おれ、人生が終わっちゃうのだろうか?)
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(輝けるランドマークタワー)

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小さい時の記憶 [過去の記憶]

今日は仕事納め。
最後までバタバタしたけど、何とか無事に2013年が終わり、9連休が始まります。

久しぶりに・・・・横浜に戻って来た気持ちがするが、
冷静に振り返ると、3週間も経っていなかった。
私は意外とさみしがり屋でした。

さて、、帰りの飛行機の中で、ぼんやりと夜景を眺めていたら、昔のことを思い出していた。
いろいろな思い出がよぎるが、
ふと、
”今、覚えている小さい時の記憶って、いつのだろう?”というのが気になった。

小学校2年の時に、
小学校の教室で、水槽を眺めながら、「ボク、この記憶をいつまで覚えていられるか?」
というのを試したことがあり、その結果、割と今でも覚えている。
人間、本気になれば、つまらないことでも覚えているものだ。

そこから昔は、もう、かなりおぼろげである。
小学校1年の新学期、隣の席の女の子が発言して、
座ろうとした時に椅子を引いて泣かせてしまい、先生からこっぴどく叱られた記憶は覚えている。
今思えば、その子の気を引こうとしたことと、
なんとなく、お茶目な気持ちで、やらかしてやろう!と、深く考えていなかったのだと思う。
(小学校1年から、深く考えていたら、それはそれで怖いと思うが・・・)
((ただ、小さい時から、心の裏でいろいろと考えていて、「小さいのにいっぱい考えるね」と、言われたときに、「あんたが考えるよりいっぱい考えているよ」と、反骨心を持ちながら、思った記憶もある))

泣いてしまった女の子は、その後女医さんになって、
ググってみると、たくさんの論文が出て来た。
(ストーカーか?)

小学校1年の時の記憶をうっすら思い出した。
たしか、小学校入学した日は、季節外れの雪の日で、
雪の中を母親に手を引かれて小学校に行った記憶がある。
さらに、小学校での父兄代表の挨拶で、私の母親が挨拶して、
セリフを忘れて絶句したのも、おぼろげながら思い出した。

その前といえば、、、幼稚園だ。
幼稚園時代に、田んぼの横の用水路でカエルやカニを沢山取った記憶がある。
幼稚園の時の給食のエピソードも思い出した。
・・・
幼稚園の時の記憶が次々に蘇ってくる。
人間の記憶って、割としっかりしているものである。


いまだに、夢の中で出てくる場所が
小さい時に住んでいた長野の田舎であることがある。
長野を遠く離れて25年近く経つが、横浜や金沢の事ではなくて、
やはり、小さい時の記憶がこびりついているようである。

私の子供たちは、きっと、今住んでいる家の記憶が、
大きくなってもいつまでもベースとなって育っていくのだろうと思われる。
横浜に家を建ててから、もう7,8年経過する。
すでに新築とは言えないが、割と快適である。

が、

テニスで忙しい妻や、
散らかすことが仕事みたいな子供たちのおかげで、
家は散らかりっぱなし、汚れっぱなしである。

今年の年末年始は、家族そろって横浜で迎える。
心行くまで、一人で大掃除が出来そうだ。

話はそれたが、、、年末らしい話題で締められそうで、、しめしめである。
20060702.JPG
7年前の我が家の写真。。。
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旅の記憶 -犬吠埼ー [過去の記憶]

この1か月ばかり、北陸は天気が悪い。
降ったり止んだり・・・降ってくるのも雨だったり、ミゾレだったり、雪だったり、雷だったり・・と、
まぁ、非常に不安定である。
風もとても冷たく強い。傘が役に立たず、傘をさしていると壊れてしまう。

自転車で走るには、ちょっと厳しい季節である。
もう走り納めだろうか。
来週末も北陸にるが、走れなければ、、残念ではある。

ちょっと強引であるが、
雨の中の走りを思い出す。。。
そう、学生時代の遠い昔である。

あれは、大学2年だったろうか、
自転車で旅することに抵抗が無く、かつ、体力的にも長い距離を走れるという好条件であり、
学生生活を満喫していた時であったと思う。
心の中では、”はしらなきゃ””はしらなきゃ。もっと遠くへ”という思いに駆られていたのだと思う。

大学時代に住んでいる場所から、千葉県の銚子・・・犬吠埼まで、だいたい100kmぐらいである。
往復で200km程度。。ほぼ、フラットな道を行くので、走るにはちょうど良い。
前の日、友人に”犬吠埼に行く!”と宣言し、眠りにつく。
が、気持ちが高まっているのだろう、眠りが浅く、すぐに起きてしまう。

ちょっと迷ったが、真っ暗の中、犬吠埼に向けて走り出した。

大学周辺は、それは走りなれているから、道はだいたいわかっている。
しかし、自分の知らない領域まで来ると、
全く知らない暗い道を、地図を見ながら走らないといけない。
気が付くと、無意味なアップダウンを繰り返して、農道を走っていたりもした。

ルートを修正し、町の中を走る。
午前2時ぐらいだろうか、運転の荒い自動車が追い越して、急に止まった。
窓を開けて話しかけるオジサンは完全に酔っ払っていた。
(当時はまだこんな人が少なからずいた)
2,3話しかけられたので、適当に相槌を打って走り去ろうとすると、
オジサンはむっとした口調で絡んできたので、
「なんですか!!」と、怒った口調で問い詰めると、
「・・・ぁ、、まぁ、、気を付けていくように!」と、言葉を濁して走り去った。
あんたみたいなドライバーに一番気を付けたいよと思いつつ、私も再び走り始めた。

その日の天気は、かなり悪かった。
午前4時ぐらいになると、気温も下がってきて、
もう、長距離モードなので、自分の汗も引いていて、体温が上がらない。
たまたま見つけたコンビニに飛び込むが、欲しいものは無いのですぐに店から出てしまう。
店の外でファン(室外機)が回っていたが、そこから出る空気が少し暖かそうだったので、
しばらくファンの周りにへばりついていたが、逆に寒くなってしまった。

もう少し走っていると、風が強くなり、小雨も降ってきた。
実は、雨具の準備をしておらず、軽装のままで走り続けた。
このままでは、体力の消耗もするし、凍えて死んでしまうのではないかと思われた。
(季節は、、、秋だったと思うが、、とてもとても寒かった)

雨具は無いが、自転車を分解して電車に乗せられる輪行袋というものを持っていた。
銚子駅に着いたら、電車で帰ろうとひそかに考え始めていた。

我慢して走り続け、、、朝日が出れば、少しは暖かくなって、
体力も回復するだろうと考えていた。
が、
犬吠埼に着いた時には、雨交じりの暴風だった。
当然、景色を楽しむ余裕もなく、
ああ、そういえば、朝日を見るのにちょうどよかったな・・・と夜に走り始めた記憶もあったが、、
まったくその希望に応える天気ではなかった。

犬吠埼の砂浜に、海水浴客がシャワーを浴びたり着替えたりする施設があった。
その施設に入り、雨をしのごうと思った。
が、雨に濡れた体を乾かす事が出来ないので、震えながら小さくなって座っていた。

体力が衰えると、思考力も低下する。
冷たく震えたままであるが、寝不足の中走ってきたこともあり、
睡魔に襲われる。
このまま眠ったら、死んでしまうのじゃないかとおもいながらも、
少しばかり眠りにつく。

物音がしたので、薄っすら目を開けると、
雨の中にもかかわらず、一人のみすぼらしい老人がビニール袋を提げて立っていた。
まぁ、私も汚いカッコで走っていたので、どっちもどっちではあるが。
老人は、白髪ひげ面で、少し言葉を忘れたような、痴呆が来た仙人のようなイメージである。

震えて眠っている私を見て、老人は不憫に思ったのだろうか、
ビニール袋から、食パンを1枚取り出し、私に無言で差し出した。
私は、何も警戒する様子もなく、差し出された食パンを受け取り、貪りつく。

お金を持っていなかったわけではないが、
その時代は今のようにコンビニがあちこちにあったわけじゃないから、
おそらく、朝の犬吠埼で食料を調達できなかったのだと思われる。
たった一枚の食パンであったが、とっても嬉しかった気がする。
老人は、しばらく、建物内を無言で、ゆっくりと歩きまわっていた。

私は、同じ場所で震えながら眠って、、しばらくして目が覚める。
当然のように老人も居ず、嵐も少し治まっていた。

犬吠埼から銚子駅までは、すぐの距離であるが、銚子駅まで来ると、
「もう少し走れるのじゃないか」
という思いになり、利根川沿いを走っていく。
気温が上がるにつれて、だんだんと元気になり、
途中まで走ったところで、最後まで走り切れる自信が付き、電車に乗ることを止めた。
”帰り道は早くなる”法則なのである。

途中、目の前で、鳥のサギが車にぶつかって、私の目の前で倒れていった。
珍しいこともあるものだと、近づいてみたら、
鳥は体から血を流していて、人間を見て逃げたくても逃げられないほどに弱っていた。
何とかしてあげたいと思いながらも、
何もしてあげる事が出来ない。
血止めに・・・と、近くにあった葉っぱをすりつぶして塗ってみたが、
効果があったのかどうかも分からない。
自分の不甲斐なさを感じながら、そのまま走り去ってしまった。

夕方に、何とか自分のアパートに帰りつく。
たった一晩の走りであったが、本当にいろいろなことがあったランであった。
細かいことは、あまり覚えていない。
なんせ20年以上前の話であるから。
しかし、上記のように、ところどころが非常に鮮明に思い出すことがある。


自転車で走りに出ると、今でもいろいろな体験をする。
楽しい思い出もあるし、悲しい思い出もある。
もちろん、楽しい思い出を作るために走ることが多いのだが、
起きてしまう出来事は、避ける事が出来ない。
しかし、
それら全てが、私の思い出になって、今の自分を造ってきたのだろうと思われる。

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全く関係ないが、、、、
羽田空港から見た朝日の富士山
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旅の記憶 -東北への旅・青森~茨城- [過去の記憶]

前回の続き、大学2年の時の東北一人自転車の旅。

雨が降りしきり、毎日パンクして、心も体もすっかり冷え込んでいる中、
半べそを書きながら、青森の山道を登っていく。
今までずっと野宿することに慣れていなかったこともあり、
心も体もすり減った感が否めなかった。

でもって、その日の予定では、十和田湖にたどり着いて夜になる。
街があればよいが、観光地であれば、下手をすれば食料すら調達できないこともあり得る。
それどころか、、小学校や駅等が無ければ、野宿するところも無いのである。
もっとも、それ以前に、この冷え切った体を温めないと、着実に体調をおかしくするのは目に見えていた。

十和田湖には午後3時には着いていたが、
体力的にもう走ることはできないほどに弱っていた。
当時は、十和田湖の湖畔にユースホステルがあり、ここを宿にすれば…と思っていたが、
当日、電話で申し込むと。
「もう予約で一杯です。今日は宿泊できません。」
と、断られてしまった。

あちこち安そうな宿を自転車で探して歩いたり、
何件か電話もしてみたが、
やはり天下の観光地である、小汚い浮浪者のような私を受け入れてくれる宿泊所が無かった。
(キャンプ地はあったが、雨をしのげるような場所ではなかった)

もう、部屋でなくてよいから、、、、と、
先ほどの十和田湖のユースホステルに電話して、懇願したところ、
しばらく間があってから、「わかりました。お越しください」と応答があった。

ユースホステルに着いてわかったのだが、
そのユースホステルは、”十和田湖グランドホテル”という看板で、
一般のホテル経営の一部をユースホステルに貸し出しているという施設であり、
行ってみれば、部屋は十分に開いていたのだった。

腹立たしいと思う気持ちも半分、
温かい宿と豪華な食事を出してくれて、
十分に英気を養え、体力が回復出来たありがたさは事実であったので、
不思議な感情を持ったまま、その日はふかふかの布団で眠りについた。


実は、東北の旅は、この日を境に、辛い旅から楽しい旅に変わった。
何よりも心身共に回復できたことや、
その日からあまりパンクをしなくなったこともあるのだが、
翌日に、小中学校の同級生が岩手で学生をしており、何年ぶりかで彼に会い、
彼の家に泊まって、あちこち観光に連れて行ってもらったり、
美味しいものを食べさせてもらったことも大きい。
持つべきものは友達だと、つくづく思ったりもする。
(自分勝手な解釈ではあるが)

彼の通う大学にも潜入し、教室の黒板に、いろいろな自分の考えを書き付けて、
自分の考えを整理したのも懐かしい。
何やってんだか?と、今思うと、笑えるようなことだが、当時の自分を支えるためには、
とても必要な回想(?)作業だったように思える。

盛岡でエネルギーを充電し、
北上川を下っていく。
山道と違って、盆地を走るので、とても走りやすい。
さらに、川の流れが表すように、下り方向だ。
気持ちよく、東北の町の間を走り抜けられた。

あまりに早く走れたので、仙台を目の前に、少し早く太平洋を見てみようと、
そして、東北に来たのだから、リアス式海岸を見てみようと、
南三陸町に出て南下する。
数キロメートル進む間に、恐ろしいぐらいにアップダウンを繰り返し、
思った以上に走れない。
リアス式海岸は、自転車で走るもんじゃないなと、笑いながら進む。

約20年後に大震災で甚大な被害に見舞われるなんて、
当時は思いもしない、鄙びた漁村だった。
松島近くの公民館で泊まったが、美しい島々の姿がとても印象的だった。


仙台では、高校時代の友人を頼ろうとしたが、
上手く連絡が取れず、長期滞在を断念する。
仙台で合宿がスタートするのが、まだ4日ほどあったので、思い切って南下することにした。

自転車での旅では、標高差にもよるが、一日当たりだいたい100km走るのが目安だ。
ロードレーサーだから、もっと走れると思う人もいるだろうが、
テントや寝袋、コンロや着替え等を持って走る重装備である。
あまり長距離を根を詰めて走り続けられないのである。

が、仙台から茨城までは、”帰路”ということもあり、
思いっきり長距離を一日で走った。
私の傾向として、進むのはとても遅いが、戻るのは恐ろしく速い。
自分が後ろ向き・・・と思うのは、こういうのが根拠なのかもしれない。

今でも、自転車で走りに行くときには、行く道はのろのろ進まないが、
帰り道は飛ぶように走ってこれる。
心理学的に、”帰り道の法則”と名付けていないだろうか?
(いないだろうね)

で、松島から四倉まで140km(だったと思う)を初日に走り、
二日目は170kmぐらいを走って、大学のアパートにたどり着いた。
途中、原発の横を通り、ちょっと不気味に思ったり(異常に静かだったので)
熱中症になりかけて、コンビニのトイレで頭から水をかぶって何とか回復したりとか、
いろいろな思い出もあったけど、
何よりも、無事に家に戻れたのがとてもうれしかった。

まぁ、情けないほどさみしがり続けた約2週間の東北一人旅も、
ぐるりと東北を一周したことで、間違いなく自分を少し成長させた。
辛い旅は自分を成長させる。
可愛い子には旅をさせよとは、良く言ったものである。


一人旅が終わり、一日休んだあと、合宿参加のために、
電車に自転車を乗せて再び仙台に旅だった。
この合宿にも、人の話したい旅の思い出はたくさんあるが、またの機会としよう。
東北一人旅シリーズは、以上といたします。

下記の写真は、合宿での一コマである。
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若かった(でもって、バカだった)なぁ…と。
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旅の記憶 -東北への旅・関東~新潟- [過去の記憶]

前回の”初めての北海道シリーズ”は終わりましたが、
誠に勝手ながら、大学2年目の時の東北一人旅シリーズを開始します。

大学2年になると、寮を出て、大学周辺の安アパートに住むのが定番になっていた。
私の所属するサイクリング部は、今でいう、シェアハウスというか、
友人と2DKを借りて暮らすパターンが多かったが、
私も同じ学部の同じサークルの友人と一緒に暮らしていた。
同じ学部で同じサークルだが、あまり一緒に活動はしておらず、
なんていうか、さばさばした関係だったので、アパートにいても、顔を合わすことも意外と少なく、
過ごしやすかった。


いや、今日はそんな話ではない。
大学2年目の夏休み、その安アパートから実走で東北の旅に出ることにした。
予定では10日後に仙台で合宿が始まるので、
その日まで、ゆっくりと”奥の細道”を楽しむつもりで旅に出た。
出発の時には、アパートの隣人も見送ってくれて、嬉しい半面、
何かあって引き返したら恥ずかしいという思いもあったりする。

さて、一路、北に向けて走り出す。
普段走りなれた道を抜け、見知らぬ土地に足を踏み入れると、
やはり、少し寂しい気持ちになったのも事実である。
(やっぱり、甘えん坊さんだった)

あれこれ風景を楽しむことなく、ロードレーサにテントや寝袋を積んでひたすら走る。
いつの間にか、ゆっくりと楽しむという思いはなくなり、ひたすら走り続けるという義務に駆られていた。
広くて平らな関東平野、栃木県でどこによるともなく、走り抜ける。
国道4号線に入ると、道が広くなり、走りやすいが、交通量が多くなり、
少し危険な香りがした。


黒磯を越えたところで、夕闇が迫って来たので、駅舎の近くに泊まる。
記念すべき第一泊目であるが、”黒原田”という駅であったことしか覚えておらず、
人目を忍んでこっそり泊まった記憶しかない。
何はともあれ、無事に初日を終えたことに安堵する。

二日目は国道4号線に戻り、福島に入り、白河を抜ける。
奥の細道通りに、そのまま仙台に入って・・・とも思ったが、ぐるりと回って仙台に行きたかったので、
途中で猪苗代湖に向けて道を変える。
国道を抜けると、いきなり住宅の数が減り、田舎の風景を楽しむことが出来た。

地図上では、そんなに標高差はないのだが、
それまでずっと平坦な道を走ってきたためだろう、
木々に囲まれた3桁国道の一本道の坂道はとてもきつかった。
”なんでこんなにきついのだろう”という記憶だけが、
今でもうっすらと覚えている。
勢至堂峠・・・今ではトンネルが出来て、ある程度楽に通れるようだ。

猪苗代湖では、その雄大な湖の姿を、存分に・・・
・・・楽しむ事は出来なかった。
猪苗代湖の西の道は、山や森を隔ててレイクビューを楽しめない。
猪苗代湖の北の公園にたどり着いたときには、
少し予定より遅くなっていたので、ちょっと休憩しただけで走り去ってしまった。

ついでに、会津盆地も、
見どころがたくさんあるにもかかわらず、思いっきり走り去り、
(今から考えてももったいなかった)
会津坂下という無人駅に、夜遅くにたどり着く。

その駅には、すでに私のように、駅寝を決め込む電車旅の若者がひとり、
ギターケースを片手に休んでおり、
私が泊まるそぶりを見せると、親切にも銭湯を教えてくれたり、
旅の話をしてくれたりした。
もちろん、彼とは二度と会うことも無かったが、ちょっとした良き思い出である。

翌日、彼より先に駅を出て、阿賀野川沿いを下る。
川の下流に向かって走っているのに、恐ろしいぐらいの渓谷を走り、
深い緑が広がる。
そういえば、この時、高校生3,4人の自転車旅をする男の子達がおり、
彼らに話しかけながらも、颯爽と抜き去って行ったが、
彼らの旅が当時のサイクルスポーツに投稿されていて、
”茨城からロードレーサーで走って来た大学生に声をかけてもらってうれしかった”旨が
載っていた。
私の中では、ちょっと話しかけただけであったが、彼らには旅の記憶になり、
ちょっぴり嬉しかったりする。

ただ、悪路を走ったせいか、3日で2回目のパンクしてしまい、
新潟の町(新発田)にたどり着いてから、自転車屋を探す羽目になった。
その後もパンクは続き、8日で8回パンクするという、
金銭的にも、精神的にも苦痛を伴う走りを強いら続けたのは、その時にはまだ気が付かなった。。。

記事と全く関係ないが・・・・
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自転車はその当時のものと一緒です。(しつこいですか?)
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旅の記憶 -知床~斜里- [過去の記憶]

先日書いたブログでは、納沙布岬と書きながら、
そのたびの情景をしっかりと表すことが出来なかった。
物書きとして、(←いつ、作家になった?)伝えるべきことを伝えられないようでは、
記者失格である(←だから、なんでライター気取り???)

初めての北海道、
根室から走り、北上して知床峠を越えた。
まだ、みんな若くて元気ではあるが、何日も自転車で旅をするのは初めてだから、
少しずつ体力の差が出てくる。
それは体力差というよりは、経験値の差だから気にすることはないのだが、
仲間たちよりも少しでもたくさん走れるようにしたかったのも事実だ。
合宿3日目だったか、、、体力ある者たちが、さらに20,30km走って露天風呂に入ってきたが、
体力の消耗を懸念して、宿泊地に滞在していた・・・のを、今思い出した。
消極的な男の子だったと思う。


知床峠を走る日は、合宿であるにもかかわらず、
”今日は一人で走って、次の日の屈斜路湖のキャンプ場で合流”という、
いきなり、北の大地で放り出された感じの日であった。
といっても、大きな北海道の大地ではあるが、基本的には一本道だ。
みんな一緒に走り、知床峠を登り、
カムイワッカの滝をみて感動し、
ひたすら屈斜路湖を目指すだけだ。

だが、人よりも少し変わった体験をして、翌日、仲間達にドヤ顔で成果を話す・・・
という目的で組まれたプランであったが、
親元を離れてまだ間もないヒナたちであるから、
ひたすら屈斜路湖を目指してしまうのは明白であった。

ただ、カムイワッカの滝を見た時間が少し遅く、
最終バスで公道まで帰って来たので、そのまま走るか、
知床の町で滞在してから翌日走るか・・・というプランしか組めなかった。
経験値が少ない・・・・というより、
自分で考えてることがほとんどなかったので、
道に沿ってペダルを漕ぐしかできなかった。

(今思っても、リーダシップというか、決断力に欠けているのは、
この時からあまり成長しなかったのだと思う。。。これは、今でも悩みの一つだ。)

斜里町まで来たときに、良い感じで暗くなった。
が、
周りを見回しても、広い畑があるだけで、家もお店も何もない。
泊まれそうな場所が無い。
その後、いろいろと経験を積んで、”寝袋さえあればどこでも寝れる”という状況になったが、
当時の私は、高校を出たばかりのひよっこで、初めての夏休みであり、生活のすべを知らなかったというか、
どうしたらよいのかさっぱり見当がつかなかった。
(今から思うと、先輩からの荒療法というか、成長するためのプログラムの一つだった)

で、
恥ずかしながら、泊まったところが、目についた「旅館:斜里温泉」という看板。
今でも鮮明に思い出すが、”値段を聞いて、高かったらよそに行こう”とおもって、
旅館のおばさんに値段を聞いて、意外と安かったので、迷っていると、
さらに値引きをしてくれたので、、、結局、一番快適な”旅館”に泊まってしまったのだ。
(翌日、みんなが武勇伝を披露する中、何も言い出せなかった記憶が…)

旅館は、快適だった。
前日は、キャンプ地で、テントではなくて、ゴミ袋シートをつなぎ合わせて、雨をしのぐだけの
"は?”
と、思われる装備だったので、屋根もあり、食事も出て、風呂もある。。。
当たり前の設備がとても貴重に思える夜だった。

翌日、屈斜路湖をめざして、ひたすら広くて長くて交通量がほとんどない道を一人で走る。
一人で走るのは、とても退屈なものだと、その時は思ったものである。
でも、あんな経験が、、、、今から思えば些細な経験であったが、
自分を少しずつ心身共に成長させていったのではないかと思われる。


初めての北海道シリーズは、
作者の都合により(←だから、随筆家か?)、以上をもって休止いたします。
当時のキャプテンが、自転車の長時間ツーリングで、又ずれが起きて
大変だったことを詳しく書けないのが残念ですが、
いろんな意味で、ちょうど良かったかもしれません。
(って、詳しく書いても面白くないワィ・・・・)


当時の写真は引っ張り出せないので。。。。
131027_1.JPG
今日は京香の算盤の試験でした。
いつも明るい京香ですが、少し緊張した感じでした。
131027_2 (2).JPG
関帝廟です。
知香の時もそうでしたが、、、中華街を散歩するのを嫌がって、すぐに帰ってしまいました。
なんでだろう?大人の価値観と違うのだな…

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旅の記憶 -納沙布岬からー [過去の記憶]

今も乗っているロードレーサーで、最初のツーリングに出かけたのは、、
大学のサイクリング部に入って最初のゴールデンウィーク合宿だった。
2泊3日ぐらいの簡単な合宿だったと思う。
初めての自転車ツーリング、そして、初めての学生生活の謳歌で、男ばっかりだったけど、
とても楽しかった記憶がある。

大学に入ってから、自転車に乗って活動する時期は、
おおむね1年から3年までである。

今と違って、就職活動は4年生になってからであり、
かつ、研究室に入るのも4年になってからなので、
自然とサークルでの活動期間は3年生までという暗黙の了解的な状態であったが、
大学にはいろいろな自由人がいて、3年生が終わっても、大学を終わっても、
大学院生になってもサークルの活動に参加する人もいた。
かくいう私も、大学院を卒業するまで参加しており、、、
いつまでも子供だったのだなぁと、、、、
今更ではあるが、思い返すと苦笑してしまう。

さて、
話は戻って、本格的な長期ツーリングが始まったのが、大学1年の夏である。
その年は、北海道で合宿があり、7月下旬に青春18きっぷ2枚使って電車に乗って根室に行き、
札幌まで20日近く、道東をぐるっと回る、割と長めのツーリングをした。

もう20年以上前の記憶なのだが、
綺麗な景色というか幻想的な風景や、初めて見る北方領土、
割と荒れて霧もかかっている北国の海。
住居や店、建造物がほとんどなく、放牧地にも牛の姿も遠くにしか見つけられなかったナ。
キタキツネをはじめとする北の国の生き物たちにも時々出会い、
旅をする仲間や、行きかう旅人、現地で出会った個性的な人々、
そんな思い出は、今でも非常に鮮明である。

そんな思い出深い旅の記憶も、写真があると、なお鮮明に思い出し、
昨日のことのようにも思えてくる。
900722.jpg

私は小さい頃の写真がほとんどない。
その反動だろうか、大学自体は旅の写真を沢山取り続けた。
思い出をいっぱい写真に残したい!という思いが強かったのだろうと思う。
ところが、逆に、写真が多くなりすぎて、アルバムでは収容できなくなり、
箱にまとめて仕舞ってしまったため、今ではなかなか見返すことも無い。
上記の写真は、何とか箱から引っ張り出した1枚である。

根室駅で電車を降り、自転車を組み立てて走り始めたすぐあとの写真である。
残念な事に、小雨は降っていたが、テンションは高かったので、あまり気にならなかった。
ただ、7月というのに、駅舎にはストーブがつけられていて、
寒い寒いと言いながら、暖を取った記憶もある。

私の尊敬する先輩と一緒の写真であるが、
この先輩の話を始めたら、、、、小説が書けるのではないかと思えるほど長くなるのでやめておく。
最近は、年賀状のやり取りしかないが、元気であるのか、どうか。


さて、横道にそれてしまってばかりいるが、
根室から東に張り出している”納沙布岬”まで、仲間たちとレースのように
競い合いながら楽しく走った。
小雨は降るし、寒かったが、道は広く、緑も豊かで走るのがとても楽しかった。
北海道は、まさに自転車ツーリングの天国だった。

ただ、毎日が楽しいわけでもない。
苦しいことや悲しいこともたくさんあった。
もう、ツーリングをやめて家に帰りたいと思ったことも、実は何回もあった。
今から考えると、それらをすべてひっくるめて、良い経験だったとつくづく思う。

道東の旅のクライマックスは、
美幌峠だった。
青く広がる空に、雄大な北海道の大地が望め、
さらに、屈斜路湖が、自然豊かに広がる風景を見た時には、
もう、これ以上の何も望まない!というような思いをしたものだった。

残念な事に、お見せできる写真が無い。
おそらく、箱の中をひっくり返せば出てくるのだが…
・・・・
ただ、何枚か写真を引っ張り出して見ていたら、、
「俺って、こんなにみすぼらしかったっけ?」
と、思う写真ばかりだった。

いや、今だって、みすぼらしいことには変わりはないが、
過去の記憶は、過去のままで留めておくのもよいと思い、写真を探すのをやめてしまったのだ。

もう少し、過去の恥ずかしい自分の姿を、
冷静に受け止めることが出来ることになったら、写真の整理をしてみたい。
ん?
それは、定年後の楽しみにしようかな。。
(それまで生きていればの話ではあるが)
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